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天仙寺は曹洞宗の寺院です。

電話でのお問い合わせは0182-33-3633

〒013-0019 秋田県横手市二葉町3−5

天仙寺物語HEADLINE

 天仙寺由緒

 岩代国和田城主須田美濃守秀一公、文安元年(一四四四)現在の福島県須賀川市和田に、金剛院を開創。天正十七年(一五八九)須賀川城(二階堂氏)和田城等が伊達政宗のために滅ぼされ、当時、和田城主であり、また須賀川城の家老職を勤めていた須田美濃守盛秀公は、家臣団を引き連れて常陸の佐竹義宣公に仕え、新参の臣ではあったが、天下の三美濃讃えられた武将であったので、義宣公は重く用い、家老また茂木百騎の総大将に重任された。慶長七年(一六〇二)佐竹義宣公に従って入部、翌年横手城代となるや、金剛院を横手に移す。天正一七年須賀川合戦の折、盛秀公嫡男源一郎秀広は、正宗の鉄砲の的にされる。その法号、天仙清公大禅定門と金剛院にちなみ、金剛山天仙寺と改める。
 以後四〇〇年余の法灯をともし続けている
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 開基家須田氏について

 須田美濃守秀範、文治五年(一一八九)源頼朝奥州藤原泰衡追討の供奉をし建久七年(一一九六)現在の福島県須賀川市和田のあった和田城にいたり、美濃守、伊豆守、越後守、主膳正、信濃守等に任ぜられて十数代和田城主として君臨していた。美濃守盛秀の代になって元亀天正の乱世となり、東北の雄伊達政宗によって、会津城主芦名氏、須賀川城主二階堂氏らが敗戦の憂き目にあい、和田城も落城し、須賀川城主後室ならびに岩瀬御台の縁によって常陸の佐竹の家臣となった。佐竹家の精鋭茂木百騎の総大将並びに茂木城主として活躍、慶長七年佐竹義宣公に従って秋田に入り、角館常を受け取り城代となる。翌年横手城代兼家老職となり、横手城の縄張り、外町と内町を分けた町割り、横手川の改修を工事を行い横手の礎を築いた。
 須田氏は、美濃守盛秀、伯耆守盛久、主膳盛品と三代横手城代を勤めたが、寛文十二年(一六七二)戸村義連と交替、秋田久保田にあって代々宿老として政務に携わっていた。家老職を勤めた中でも特に盛胤、盛勝、盛命、盛徳等は藩のために活躍し治績を残している。最後の家老職であった政三郎盛貞は、秋田藩砲術所総裁として西洋式火砲の技術調練を取り仕切るとともに、雷風義塾と連携して、秋田藩を勤皇に導いた功績は大きい。戊申の役では軍事総括を命ぜられる。学校総裁兼佐竹の世子義修の守り役、職制改革によって執政、秋田藩大参事、秋田県典事等を歴任、維新当時の秋田の政界に重きをなした。小五位を贈られている。晩年は家運傾き、東京に移住、一人娘の乾に婿をとって、生活していたが、東京大震災の頃から寺との文通も絶えている。
 現在残っている分家は、須田二良氏、須田暁氏の二家である。

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 岩瀬御台様について

 会津の芦名修理大夫盛氏に跡継ぎがなく、須賀川二階堂遠江守盛善の子盛隆を養子とした。盛隆には長女(後の小杉山御台)、二女(後の岩瀬御台)と長男亀王丸と三人の子があったが、亀王丸は早世したので、長女に佐竹義宣の弟盛重を配し芦名家を継がせたが、天正十七年(一五八九)伊達政宗によって滅ぼされ、常陸の佐竹家を頼っていく。国替えの時に義宣公に従って秋田に入り、仙北郡内一万五千石を与えられて角館に住んだ。
 一方、須賀川二階堂家は当時、盛善の後室(政宗の叔母、阿南の方、大乗院)が支配していたが、女であるために万事を和田城主である須田美濃守盛秀に任せていた。二階堂家では孫にあたる芦名家の二女を養女とし、婿を迎えて跡を継がせようとしていたが、天正十七年政宗大軍を率いて須賀川城を攻め、遂に落城、この時岩瀬御台(五才)は後室とともに常陸の佐竹家に移り、後に義宣公の奥方となってともに秋田に来られた(十八才)。途中、それまで愛情一筋に可愛がってくださった後室が病に倒れ、故郷須賀川で今生の別れを惜しんみ、遙か彼方の久保田に赴いたのであった。
 しかし、程なく、故あって御不縁(古記録)となり、大沢に二百石の知行を賜って横手城代須田美濃守お預けとなった。岩瀬(現在の清川町)の地の御殿に、多くの女房や下衆とともに過ごし、お慰めには、大沢の別荘や布晒等へ遊山されたということである。
 会津芦名百万石の姫君として生まれ、須賀川二階堂の養女となり、華やいだ深窓の生活を送られた事であろうが、時は戦国の世、一族離散の憂き目にあった。その後、義宣公と連理の契りを結ばれた常陸時代は、どんなにか幸せな日々であった事だろう。しかし、秋田に来て何故か御不縁となり、その上、たった一人の姉君である角館の小杉山御台に先立たれ、天涯孤独の身で横手に三十八年過ごした。寛永十六年(一六三九)八月八日、草深い横手の里にはかなく消えた。
 御年五十五才、昌寿院殿光圓昌瑞大師淑霊、今、天仙寺墓地北側のお堂の中に、静かに眠っている。
 何故御不縁であったのか、「故あって」としか伝えられていないが、御不縁後の待遇から察すれば、義宣公の愛情の薄れからの御不縁ではなく、よほどの事情があったものだろう。確たる事は分からないが、徳川幕府中枢の伊達政宗に遠慮しなければならない佐竹家の立場から推察すれば、政宗に敵対し滅んだ芦名・二階堂の血筋が悲哀の源だったのかも知れない。
 義宣公が選んだ横手の地には、時の城代須田美濃守以下、旧二階堂の臣下が多数暮らしていた。御台にとって安住の地であった。天仙寺記録によると、義宣公江戸参勤の上り下りには、使者をもって、度々金子や小袖を賜わり、御台の葬儀には公儀からの代官、角館芦名からの代官、佐竹藩宿老梅津半右衛門、須田伯耆守等が参列し、須賀川衆が御台の亡骸を昼夜を分かたず不眠不休の警護をしたといわれている。また、当寺十九世良山泰音大和尚の代には、御台二百回忌法要が公儀からの御名代並びに須賀川衆の参列のもとに行われたと伝えられている。
 昔は、「くそいぼ」を出す子がいたが、岩瀬御台のお墓の苔をとってつけると直るというので、「くそいぼ神さん」などと親しまれていたという。
戦国から徳川初期の薄幸の佳人の眠るお墓にお参りして、往時を偲びながらその御霊を慰めてくださいますように。

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